自然の風土を表す砂の「岡」。そして人々が生活し、防風林として誕生した松の「垣」。このふたつの言葉が合わさった岡垣は「小高い砂丘に松を植えた人々が住む町」。まさに人と自然が一体になった町名だと言えます。
博多と関門を結ぶ陸・海の交通の要所として、また、豊かな自然を活かした農作物の産地として、日本の歴史と共に歩んできた町。岡垣町はその名のとおりこれからも豊かな自然と共に歩んでいく、そんな町でありたいと思います。
町名は明治生まれ
明治40年、二村合併により誕生したのが現在の岡垣町の前身、岡垣村です。合併前の村は岡県(おかがた)村と矢矧(やはぎ)村という名前でした。高倉や野 間、海老津など現在も字名として残る多数の村が合併して誕生した村でした。しかし、この村名変更まで「岡垣」という名称は歴史上に一度も現れたことがありません。
では、なぜ?
実は、この「岡」と「垣」という二文字には日本という国が誕生したころから続く、長い歴史が刻まれているのでした。
岡郷(おかのごう)
日本最古の国史書、日本書紀。その中の神武天皇のエピソード中に「筑紫の国崗」というくだりがあります。また、「国県主熊鰐(くにのあがたぬしくまわに)」なる人物も登場します。
筑前国続(ちくぜんのくにしょく)風土記には「内浦の西、原村より芦屋までの海辺に、高き岡つづけリ。ゆえに、その辺りを岡と称し、郡(こおり) の名もこれにより名付しならん。」と書かれています。つまり、現在の岡垣町の原から芦屋町にかけては、古くから小高い砂山が続く地形で知られており、そこ から「岡郷」とか「岡の庄」などと呼ばれていたようです。
遠賀郡の「遠賀」も古くは「オンガ」ではなく「オカ」と読まれていたようです。(大宰管内志から)。オカの郡にあるオカの町。大和朝廷が成立した頃から、海沿いに砂丘が広がっていた所。そう考えながら当時の風景を想像してみると、悠久の歴史のロマンを感じますね。
垣前郷(かきさきのごう)
西暦645年の大化の改新、672年の壬申の乱を経て律令制による日本の中央集権体制が確立されていった奈良・平安時代。このころ、現在の岡垣町 の西部は「垣前郷」と呼ばれていました。和名抄には「垣前の庄」とあり、高倉旧記にも「垣前の庄」とあります。筑前国続風土記や遠賀郡誌によると、神功(じんぐう)皇后が宿陣された時に海風の強さを嫌って一晩に千本の松を植えさせて垣としたのが起こりである、とあります。その松が生茂って松林となり、北風 を防ぐことから垣崎の松原、垣崎の郷と呼ばれることになったそうです。
「垣」という文字には、そこに暮らす人々の営みやより快適な生活への願いなどが込められているようで、人間の果敢な行動力さえも感じさせてくれます。
そして明治40年
そして時代は移り明治維新後、廃藩置県の影響で誕生したのが「岡県村」と「矢矧村」。しかし、このふたつの村、基本的な風俗や性格に共通する部分も多く、また、JR(当時は九州鉄道→国鉄)の停車駅の誘致活動も影響して、次第に合併への機運が高まっていきました。
そこで問題となったのが新しい村名。岡県村では「矢矧村も古くは岡の県だったから岡県村とすべきだ」という声があり、また、矢矧村では「いや神功皇后の時代に、当時の武器である弓矢を作った故事から名付けられた矢矧村が村名の由来なので、こちらも由緒正しい名前だ」と意見がまとまりませんでした。そこで当時の遠賀郡の郡長の鶴の一声。岡県の岡と、古くからこの地方を垣崎と呼んでいたことから垣をとり、二つを合わせて「岡垣」とする決定を下したのです(己百斎筆語から)。こうして村名に残せなかった矢矧村の名前は矢矧川にその名を残し、また、明治43年に開業した国鉄の駅に、矢矧村の中心であった海老津の名を残して今日に至っています。